エッセー

アンチと信者は有害である。

どちらも本質は一緒だ。

アンチと信者は、相反する両極的な言葉かもしれないが、本質は一緒だ。
まさに表と裏だ。
表と裏は、境界線があるから、表と裏なのである。
その境界線こそ、本質と言える。
アンチと信者の本質、それは盲目的な所だ。熱狂的と言い換えても良いだろう。

イエスマンやノーマンとは、わけが違う。

ここで間違えてほしくないのは、いわゆる“イエスマン”や“ノーマン”とはわけが違う。
イエスマンは、自身の保身の為、又は適当に“イエス“と言う、消極的なニュアンスが強い。本当にイエスなのかはわからない。
ノーマンにしても、それがどんなに素晴らしくても、その人が嫌いという理由から“ノー”と言う、敵対的なニュアンスが強い。
そしてどちらも、その本質は“無関心”である。
とりあえずイエス。この人ならノー。
どちらも、深く関わろうとはしない。

アンチと信者は違う。
どちらも積極的だ。

アンチは言わずともわかるはずだ。

アンチは言わずともわかるだろう。
それこそ調べれば、過去から今まで、沢山の実例を見つける事が出来る。現在進行形のものも見つかるだろう。
そして、ただのノーマンであれば、どれほど良かっただろうかと思うはずだ。

彼らは総じて攻撃的である。
そこに理性なんてものは無い。
己の欲望に忠実だ。
そう、目の前にナイフがあったから刺した。

第三者が見れば、その異常さがよくわかる。
彼らには本当か嘘かなんて関係ない。
嘘をでっち上げてでも攻撃はするし、当事者の周りの人間への迷惑行為も行う事もある。

それでいておこがましくも、自身の正当化を行う。

信者は暴走する。


ならば信者はなぜ有害かと話である。

信者も盲目的である。
そしてその当事者に対し、とても友好的な反応を示しているだろう。
だが時として、彼らは暴走する。

例えば、当事者が過ちを犯したとしよう。それは確かに間違いだったと。
しかし、信者はそれを擁護する。
守ろうとするのだ。これ自体はまだ、イエスマンと大して変わらない。
だが問題はここからだ。

どんな擁護しようとも、間違いは変わらない。
だから第三者を、悪とするわけである。

多く聞かれるのは、被害者への攻撃であろう。
当事者が全面的に悪かろうが、関係ないのだ。
真実なんて関係ないのだ。

彼らは時として、誰かのアンチになりえる。

私が思うに。

私の個人的な基準だが、最も有益なのは、“ファン”と呼称される方々だろう。
彼らは当事者を慕い、敬意を持ち合わせている。
だからこそ、当事者を深く知ろうとして、間違いがあれば指摘もする。

次に有益なのは、嫌いな人達だ。
彼らは、当事者に対し、理由があるから嫌いであるパターンが多い。
だからこそ、全てを否定するわけではない。
嫌いではあっても、『○○をしたのは凄いと思う』『基本が嫌いだけど、○○は好き』のように、彼らもまた、当事者を知っている訳である。

次いで特に興味が無い方たちだろう。
聞いた事がある、見た事がある。
ある意味もっとも冷静な方たちである。
基本は、無関心だが、時に冷静に、第三者としての、批判と擁護をする。

そして、有害である、アンチと信者。
冷静など皆無であり、考えるという行為を放棄している。

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