エッセー

思想の自由を考えたら。

いなかなる思想も、否定する事はできない。
なぜならそれは、思想であり、個性であるからだ。

例えその人が、○○は死ぬべきだ、○○な人は必要ない、○○はきらいだ、○○はこうでなくてはいけない、等のような差別的、反社会的な思想、私はそれを否定しません。
むしろ、なぜその思想がいけないのか?私は問う。

これを見ている人がいるかどうかは知らないが、見ている人の98%ぐらいの言いたいことはわかる。
何を言っているんだ。変な奴だ。過激な事を言う目立ちたがり。家族が被害にあっても同じことがいえるのか。
言いたいことは沢山あるだろうが、まずは私の話を聞いてくれ。

私は思想の自由という、言ったもの勝ちの都合の良い自由を盾に、上記の事を言っている訳ではない。
自身の価値観の元に、自由を話したい。

まず差別思想、反社会的思想の定義をします(長いので、以下"危険思想"に略します。余談ですが、本来の危険思想は別の意味です)。
ここでの危険思想とは、人生の中で育まれた自身の思想が、世間一般的に悪とされる事を知りながら、それを抑えている方の思想を指します。
今で例えるなら、コロナウイルスの感染者に対する差別は、該当しません。
目の前にコロナという、都合の良いナイフが現れたから刺しました、という考える事を放棄したこれは、思想ですらありません。
ただのストレスのはけ口です。

では、具体的に危険思想を考えます。
多かれ少なかれ、人には影があり闇を抱えています。
どういった経緯で、そうなるのかは人それぞれですし、その結果どうなるのかも人それぞれです。
しかし最終的には、遅かれ早かれ。闇を抱えます。

どうしたら、危険な思想が生まれるのか?
生まれてしまえば、どうして生まれたのか考える事はできるでしょう(家庭環境がひどかった、いじめにあっていた等々)。
しかし生まれる前に、それを止めるなんてできません。
これはもう、一歩間違えれば、私だったりあなただったり、隣の人だったり。たまたま偶然に、生まれてしまうものです。
こういった思想は仕方なのない事です。

危険思想を持っている人は、その事柄が既に広く認識され、差別されるべきではないという一般認識が出来上がっている為、その思想がいけないと言う自覚があります(無意識的に差別発言をしたというのは、思想というよりも先入観でしょう)。
いけないという自覚がありながらのジレンマを抱えます。

このジレンマを抱えている状態ですと、本人に大きな影響を与えます。
ため込み過ぎず、適度に発散する必要があります。

発散で最も簡単な方法は、打ち明ける事でしょう。
友人なら家族なりに......。
しかし、打ち明けたら仲が悪くなった、否定された。というのが怖い。
打ち明ける側にも恐怖があるでしょう。

自由の話に戻しましょう。
彼らがその思想を持つのは自由です。
それを私たちが否定する事はできません。
そう否定しないのが、理想でしょう。

理解する必要はありません。
というか、理解できないでしょう。
私はできません。だから否定もできません。

多くの人がその考えがある、という認識をしなければいけません。
理解はいりません。あるという認識で良いのです。それが自由なのですから(否定するのも自由ですが、それは否定される権利があります)。

私も最初に、いくつかの例を挙げて、差別思想や反社会的思想という、くくりでまとめました。
捉え方によっては、このくくり、レッテル張りも、差別なのですかね。

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